昭和46年05月05日 朝の御理解



 御神訓 一、「天に任せよ、地に縋れよ。」

 信心生活をお任せの生活だと。確かにお任せの生活であります。 けれどもそれは、只任せたと云うだけではなくて、やはり、地に縋ると云う心が、私は大事だと思うのですね、任せたと。先生にお願いして居ると。先生にお任せしたと云う事。任せただけでなくて地に縋ると。天に任せると。神様に任せると言うただけでも、実は容易な事ではない。それをやはり容易なものにするために地に縋るというか。
 地に縋ると云う事は地に縋がらせて頂くと云う事は、地に縋らせて頂くと云う事は愈々本気で神様をただ拝むと云うだけではなくて、愈々自分の心を改めて行くと云う事愈々自分の心を見極めて行くと云う事。そこん所を縋って行かにゃいかん今日も改まりの一日であります様に、と云う事だと思うですね。同時にまた一生懸命に御祈念をすると云うた様な、普通一般で言うお縋りと云う事でもそれは違っておる事でありましょう。
 けれどもただ拝むとか、御祈念をするとかと云う事ではなくて、拝むこと、御祈念をする事の中に、自分自身というものをはっきり見極めて、改まって縋るという。処が内容になからなければいけない。『天に委せよ、地に縋れよ』と。何か非常にこう一生懸命の人と、何か悲愴なものをですね、例えば病気等の場合なんかは、まあ医者に見放された、もう神様にお委せする以外にない。
 神様にお縋りする外にないと、いった様な時に、『天に委せよ、地にすがれよ』とよく云う御教えが引用されます。また、そういう時に実感が湧いて来る。善導寺の原さんの、松栄会の入殿が昨日から有っておりますが、その中に庄一郎さんが居られます。楽の御用を頂いて居ります。もう二十年に成りますでしょうかね、あの大病患われた時に、医者も手の施しようがないと。知らせる所には知らせたが良かろうと。
 親戚の人達はお葬式の準備をしてから集まられた程しの状態の中に、御両親である原さん達夫婦一生懸命の信心お祈りがありました。丁度月次祭の夜で御座いましたが、もう月次祭が終わっております所へ原さん達の事で御座いますから、もうランニングシャツ一枚でしたねお父さん。それこそ悲愴なものですね。いわゆる神様にお縋がりなさる。「一生懸命お縋りして、おかげを頂きなさい」と言うてありましたのに、もう愈々難しいごとありますから、お父さんとしても、親御さんとしても気が気ではない。
 まあ気も転倒せんばかりですね。そういう時に、例えばこの御理解を頂けばですね、『天に任せよ地に縋れよ』 ですから、「大体先生どんなものでしょうか、本当に助かるものでしょうか、助からないものでしょうか。もう御遠慮はいりませんから、どうぞ死ぬるなら、生きるならはっきり言って下さい」と、そう言われました。お父さんが。もう言わば医者も手の施しようもないと。半分は死んどりますと。
 どうぞ神様にはっきりした所を言って下さいと。まあ言うなら神様に詰め寄られると云う様な、悲愴なもんでしたよね。それで私は申しました。「その時お話を頂いておると、もう愈々難しか。もう半分は死んどる。もう半分は諦めとりますと。言うならもう仕舞えとるじゃないかと。成程そこに覚悟をしなければ居られない。半分は諦めとる。もう半分は死んどる。それならあなた、仕舞えとるじゃないか。
 そう云う事を言わずに、愈々神様にお任せして、そしてお縋りしなさい。裏の畑にどん座ってから、天地を拝みなさい。天地に縋りなさい」まあ、気合いを入れて帰しました。その晩が愈々瀬戸際と云うとるでしたからね。その間医者も何回もやって来ましたけどね。何回来ても、何回来てもですね、注射器を忘れておったり、注射しなければならない注射液が違っておったり、取りにやると違っておったり。
 愈々打ちだしたら、それがよく刺さらずにこぼれてしもうて、如何に神様が注射をさせまいとなさったことを、その時感じました。其の事を聞いて。おかげで、それから医者を、自然に止められる事になり、もう神様にそれこそ天に任せて、しかも一心に縋っての両親の信心が段々おかげを頂くようになり、神様に、御夫婦の方たちが一生お参りを怠る様なことは致しませんと言った様な誓いまでなさっておかげを頂かれた。
 そういう時に、その成程この御教えは、天に任せて地に縋ると云う様な、もういよいよぎりぎりの時、いよいよどうにも人間の知恵力で出来ない時、そうするより他に手がないと云う様な時に感じるですね。そん時に非常に力強く頂ける御教えですね。天に任せ、地に縋れとこう言う。けど私はそう云う様なですね、悲愴なまでの信心の姿というものではなくて、これが日々信心生活の中にです。これが出来た時に、私は本当に楽なおかげが頂かれると思います。
 日々の生活の中に、『天に、任せよ、地にすげれよ』であります。その前に、『疑いを離れて広き真の大道を開き見よ、我が身は神徳の中に生かされてあり』もう私は信心させて頂く者の最高の境地だと思うです。御神徳の中に生かされてあるその事がです、実感させて貰えれる生活。成程神様の御守護の中に生かされてあるんだなと、実感させて頂く生活。それにはね、やはり疑いを離れてとこう言う所が、ある、いわゆる疑いを離れて天に任せる。どうにもしかたがない。
 人間の力がないから縋るじゃなくて、人間の知恵、力というものが、そこに限度があるというてあるけど、実は限度もない。実を言うたら、いわば人間の力と言うたらないのである。無力である。だから縋らなければ居られんのである。だから任せるより外にない生活である。そこんところにですね。私は日々の信心生活の中にです、わが身は神徳の中に生かされてあるなあ、神様のお働きというものが、どの様なものであるかと云う事を、実感させて貰える生活。
 そこに有難いことだ、勿体ない事だというものが、その次に約束されるものだとこう思うのです。昨日松栄会の入殿に当たって、私に八時から十時まで私に受け持てと云う事であったので御座いますから、二時間お話をさして頂いたり、皆さんに話を聞かせて頂いたり、質問を受けたりして、それに答える様な、丁度八時から十時までをその様なおかげ頂きました。中で「むつや」の石井信司君が発表しとりますのに。
 「年々歳々、段々、この入殿の有難さと云う事は解かって来たけど、今年という今年は実を言うたら、僕としてはどうにも出来ない状態下にあった」と。店の方、自分に代わる人も居ないし、店員さんに委せられると云う様な詳しい人もいないし、色々な角度から言うて、今度の入殿は参加出来ないかの様に見えた。けれども日頃教えを頂いて居りますもんですから、こういう時が大事だと、云う様な気持ちも働いて、おかげで無事入殿させて頂いて、そして昨日の朝の御理解を頂いた。
 昨日話の中に、私が親教会の四十年祭のことで一年間私が修行さしてもらうた話をさして貰うた。願いが成就したかに見えたけれども、それは又、元の木阿弥になっておったと。其処でわからして頂いた私が、お夢の中に古い井戸を頂いて、井戸に大きな鯉が泳いでおる。その鯉を、ああこの鯉こそ今度の記念祭の御供だと思わせて頂きながら、その井戸の中に私は小便をして居ると云うお知らせであった。
 そこで私は、そこで気が付かせて頂いたのは、自分が一生懸命一心の真を尽くしとる様にあるけれども、それは非常に小さい言わば条件付きのものが、其の中にあった事に気が付かせて貰うて。いわゆる無条件での奉仕というか無条件での修行というか。おかげ頂かにゃんけん参りよると云う事でなく、おかげ頂かんならんけん御用しよるとではなくて、一年間を棒に振ってでも、その記念祭に奉仕しようとする。
 もうこんなに私は神様の事思うとるのにと言う、その心の中に一年が経ったら、今度は私大坪総一朗のために神様働いて下さいよと云う様な小さい、さもしい条件があった事に気付かして頂いて。そこんとこ無条件にならして頂いて、おかげを頂いたらそれこそたった一ヶ月間の間に十ヶ月どうにも出来なかった事が、成就したという話を聞いて頂きました。そこん所を頂かして頂くうちに信司さん感じたんですね。
 今度の入殿は、もう一切を、言うなら神様に、お任せして来ているのである。自分がこちらに来ていれば、神様がなんとかして下さるだろうと、言った様な条件をかなぐり捨てての、今度は入殿でなからねばならんなと。今日から言うと、昨日の朝の御理解を頂いて、その事を感じられたとこう言うのである。処が、これがどこまで神様が働いて頂いてあるかまだ解かりませんけれども。
 今日一日そういう無条件にお縋りをして、言わば無条件に信心を解からせて頂こうとする姿勢を取らせて頂いて。丁度昨日東京のお客さん達が帰りましたから、あちらに見送りに車を出して貰いました。あちらに見送りに行っております時に、丁度田主丸の方からも義理の兄さんであります久保山茂さんも来ておりました。そして「今日は信ちゃんあんたこちらへおかげ頂いておるが、家の店は非常に店の方が繁盛しよる。
 もう思いもかけん処から集金が寄りよる」と云う様な事を聞かせて頂いて、まあしかしそれが何処までおかげと云う事は、私ははっきり解からんけど、それを聞かせて頂いて、成程無条件と云う事がね。無条件にと云う事が、天に任せると云う事であり、本気で無条件に信心修行させて頂く事に精進させて頂くことが、地に縋ると云う事であるならばです。成程神様は、わが身は神徳の中に生かされてあるなあと。
 人間の知恵力でどうにも出来ないことが、お店の方でサッサとそのことが出来て行きよる。いや自分があれこれしていることよりもスムーズに行っておる。集金なんかのそこのところはもう、寄る集金があるはずがないと言った様な所から、わざわざ持って来て貰ったと云う様な働きがです。それを聞かして頂いて、此処に疑う余地のない信心が少しづつ出来てきた。疑いを離れて広き大道を開き見ることの出来れるおかげ。
 わが身は成程神徳の中に生かされてあるのだなと。いや神様のおかげを頂かなければ出来ることではないという体験が、まあ今日一日の上に現れておる。愈々生々として、この入殿がです信心を体得さして頂けれる。いわゆる危惧の念を去っての信心修行が出来るという意味のことを発表しとります。ですから私は、天に任せて地にすがると云う事が、そういう日々の中ですに、そんなちょっと感じる悲愴なまでの、自分にはどうしようがないから神様に縋るより外にないと云うて縋るというのでなくて。
 日々の信心生活そのものがお委せした生活にならせて頂く時にです。ただ地に縋る、自分自身を本当に見極めさして頂いて、自分自身が改まると云う事に、焦点を置いての信心さえさして頂いとればです、心を神様の方へ向けておれば、本当の有難い信心生活が出来るんだと云う様なことを思うですね。ただ心配である。けれども手の施しようがない。だから任せるより外にないと云うのではなくて。
 いわゆる疑いを離れてですね、任せられる。おかげを頂かなければならん。其処にはわが身は神徳の中に生かされてあるなという体験が生まれて来る。それには天に任せてというだけではない、やはり地にすがると云う所。それはただ、んならどうにもしようがないから、神様を一生懸命拝むと言った様な事ではなくて、本気で自分の信心を正確なものにして行くことに努める。
 自分の自分の心の状態を改めて行くと云う事に縋がって行くというおかげ。もう十時になりましたから、ならこれで終わらせて頂こうと。それで共励殿ですから。大きいテーブルの前で御座いましたから、終わったことを神様にこう御礼申さして頂いとりましたら、丁度あの上に、皆さんご承知のように四角い電気が燈いてます。中が十の字になっている。それが丁度真下の黒い漆の大きなテーブルの上に真四角に、いわゆる田の字になって映るんですよね。黒い鏡のように綺麗に拭いてありました。
 その真上にある電気が真四角の中に十の字になった。それがこれに映って、それを頂くんです。ですからもう皆さんこれを見てごらんと。もう実に几帳面な、正確な四角い。その中に真っ直ぐプラスと、十という字になってこれに映っておる。だからこのテーブルは黒に輝っておる。修行に光っておる。その上に例えば真四角に、十の字が中に入っとるように、正確な信心をさして頂けば、正確な間違いのないキチッとしたおかげが受けられるという。と言うて最後に締め括ったわけですけれども。
 お互いがやはりキチッとしたおかげが頂きたい。正確なおかげが頂きたい。ならばね先ず正確な信心をせねばいけません。言うならば、しらごとの信心をさして頂いて、おかげだけ正確なおかげを下さいなんて、これはおかしいですね。ですからどんな場合であっても、これだけはと言う信心の節度を、それぞれにキチッとさせて貰ってです、その信心がなされる。しかもその苦労ですね。
 修行と云う事がです日々の中に、いわゆる御まかせの生活、そして改まりの生活。そう云う事に取り組ませて頂いて、その上いわゆるキチッとした信心をさせて頂く。所が中々キチッとしたと云う様な事も出来かねる事もありますけれども。
 そこん所を、お詫びの印にと言った様にして、出来なかった所はお詫びの印にと、まあ自分で信心の工夫さして頂く処に、神様はそれを正確な信心として受けて下さる。そこにいわゆる几帳面というか、キチッとしたいわゆるもう神様の働きは、もう枡で計ったごとあると云う様な事になるのじゃないでしょうか。まあ私は合楽の信心の一つの魅力と云うのは、その様にですね、私の周辺にそういう間違いのないキチッとしたおかげが受けられておると云う様な事はですね。
 私がならその正確無比な信心をしとると云う訳じゃないけれども、出来ない、けれども、出来ないけれども詫びて行く。侘びて行く印に、信心をさせて頂く工夫をさして貰うと言う様な所でです、ま大体おかげを頂いているのじゃないかと云うふうに思うのですね。今度東京からこちらに、一週間居りましたが。一週間のことが、東京の信心のない小西の両親の言葉を借りると、今度の様にまんの良い事はなかと。
 何から彼までが置いたものを取る様にあるという意味の事を。毎日それと言うて何てまんが良いんでしょうと言うてからと云う様な毎日でした。ですからそれを横で見ている信心のある者は、本当に親先生の周囲に起きて来る間違いのない事を皆が実感して行ってる。信心が無いから運が良い運が良い、まんが良いで一週間を過ごしましたけれどもですね、そういうおかげが頂けて行く信心が、私は合楽の魅力だと思うんです。
 それには段々おかげを頂かせて頂いて、天に任せて地に縋れと云うのが、日々の生活の中に頂ける様になる。それで私は信司さんの入殿のそのことを、まあ例に取ってお話致しましたら。やはり疑いを離れられるまでの信心修行。自分のどうにもしようがないから、天に任せるといったのでは本当な事ではない。神様を信じて疑わないから任せられるとい云う所まで高められている信心生活。
 それでいて人間生身のことですから、どこにお粗末御無礼があるやらわからん。どこが神様の気感にかなわぬやらわからん。其処に神様の働きをですね、感じさせて貰う、頂かせて貰うおかげ。これは今度熊谷さん処の宅祭にそれを感じました。私はお祭、それはもう何とも言えん気分の良いお祭というか、仕え良いお祭というか、もう一家を挙げて、また御信者さん方の協力というか。
 御用奉仕等も、万事万端の上に御都合お繰り合わせ頂かれた。本当にまあ気分の良い、まあ真心一杯を感じるお祭りでしたが。お祭そのものも本当にキチッとしたことでした。これはまあ何時も私申しますように、私が例えば宅祭、お祭を仕える時に、私の大事な、例えば柏手を打ってその先に御祈念が始まる時に、例えば時計が鳴ったりしたらね。私の信心がそれだけ間違っておる時だと私は皆んなに申しとります。
 これは私が命を張っての信心だという意味なんですよ。どうでしょう、先生があげん言いなさるばってんが、丁度先生の御祈念中にジンジンちゅて時計が鳴ったなんて言うたら、私は皆さんから、あら先生が間違うとると言われても仕方がない。それをいつも正面に出して申します。やっぱり小一時間かかるのですから、特にあのー熊谷さんのつは一時間のあい中にも鳴るんですよ、チンというのが。
 それがもう神様の御祈念をさして貰う、御霊様の御祈念に移らして貰う。そのね座って柏手を打つ前に、チンが鳴ったり、御祈念が終わった後にジンジンジンジンと、八時でしたか九時でしたか鳴るとかですね。これは私は何処へ行ってもそうです。と言うて何時もという訳じゃありません。何処ででしたか、それがちょっと狂ったことがありました。そういう時には、私は猛反省を致します。
 これだけ私の信心が違ったと云う訳なんですから。だからこれはもう宅祭に参ります時に、簡単なようですけどもね、これは私は命を張っている印なんですよ、あのことは。だから私の周辺には何時もこんなにキチッとした、間違いのない働きがあっているんだと、皆さんにそれを信じて頂きたいからなんです、私が言うのは。そして其の事をですね、私は御理解の時に言おうかと思いましたらね、神様が私自身の心の中に、「このようにも間違いのない働きを受けているという実感で話せ」と云う事でした。
 ですから、あの時の御理解には全然触れませんでしたけれども。その私が神様のおかげで話さして頂いとるなという、いわゆるお話をさして頂いた訳で御座います。そのように間違いのない働きの中にです、お祭りが終わった訳です。所が御直会を頂いた。さあ帰るということになって、健司君の車で帰らして頂いた。何か追い越しをさして頂いておる時に、私は初めてでした。何かえらいブウブウいいよると思ったら、後ろから追いかけてきよる。いわゆるスピードの出し過ぎだったらしい。
 それで止まって、暫く話し合いをして、一番最低の罰金ですか、その料金を払わねばならない事に成ったと聞かせて頂いたのですけれども。その事を神様にお願いさして頂きましたら、ま、此の様に真心いっぱいのお祭を奉仕された。それこそお祭というのは、一年間おかげを頂いてまいりました。そのおかげを頂いて来ましたと云う其の有難いという心の表現があのお祭りになって現れておる。
 だから、此の様に素晴らしい、言わば神恩奉謝の表れがあのお祭に表れておる。だから神様はそれを愈々完璧なものとして受けて下さろうとする働きがある訳である。去年もやっぱりそういうお祭りでしたけれども、昨年は確かに御用中にです、一番大事な時に水が止まった。水道が。慌てた。今度はね、ガスが止まったと云う事ですね。とにかく神様の一分一厘間違いのない働きがその様にして表れて来るのです。
 ですから此の様に真心一杯の信心させて頂いとるけれども、もう少しばっかり欠けておったと。罰金がもし五千円であるなら五千円が欠けておったと言うのですよ。其処に初めて一年中の真心一ぱいの御礼のお祭りが無事終了したと云う事になると。これこそ人間の見た目では真心一杯で、間違いなさそうだけれども、「一番大事なガスが切れるぞ」と云うふうなお知らせがね、そういう働きの中にあっておるし。
 勿論昨日の罰金は熊谷さんが払われた事であろうと思うけど、それが五千円取られておるとするならば、なら五千円まだ欠けておったと云う事になる訳じゃないでしょうかね。その様に間違いのない働きというものは、良しにつけ悪しきにつけ頂けるのです。其処でです、天に任せ地にすがる信心のその内容が、それこそキチッとした信心に節度を持っての信心から、昨日私が頂きました様に真四角の中に田の字になっておる。
 こういうおかげが此処に映るのだ。丸い信心すれば丸いおかげ、三角の信心すれば三角が映るのだ。三角の信心しと云うて、どうぞ丸いおかげを下さいと言うのではなくてです。だから願うから神様はそう云うおかげを下さろうとする働きがある。それは良しにつけ悪しきにつけあるのである。だから其処ん所をです、疑いを離れなければ合点が行かぬのであります。それこそ一秒、二秒の狂いもないですよ。
 私今度のお祭なんか尚更そうでしたがね。例えばそれがポンと手を打ったその後に、チンと鳴ってご覧なさい。もうそれだけ狂ったごとなるじゃないですか。けれども、するとする瞬間に鳴ったのですから、拍手を打った場合は何の邪魔もなってこない訳です。あの時のお祭の拝まれた方達が実感されたであろう、あの通りなんです。だからあの通りのおかげが受けられるのです。
 だから神様もそれを渡そうとなさるのです。だから昨年は水道のお知らせ下さった。今年はガスでお知らせ下さった。そして此処ん所だけがまだ五千円が足らんぞと云う事になった。そういう私は正確なおかげを頂かせて頂いて、愈々わが身は神徳の中にあるんだなあと。なら我が身は神徳の中に生かされてあるんだなあと云う事が解からせて頂く生活とは、天に任せて地にすがる、日常生活の生活の中にそれでなからなければ。
 それが本当の意味においての信心生活だと云う事であります。「天に任せて地に縋れ」もう愈々自分ではどうにも出来ない、医者からも見放された。どうにも自分には手の打ちようがない時には、仕方がないから天に任せておると云うだけではないと云う事。天に任せて地にすがると云う事こそ、私はお道の信心させて頂く者の、いわゆるま素晴らしい信心姿勢とでも申しましょうか。
 それでいてその内容には修行一つの中にも、こうと決めたらこうとキチッと行じ抜かせて。しかも地にすがると云う事は愈々本気で改まると云う事にです、縋らして頂くと云う事、おかげを頂かなならんと云う事になります。昨日松栄会の中で私が三十分間こうやってキチッとお話しする事がもう皆さんにちっとは無理が行きよるとじゃなかろうか。はあもう時計ばっかり見て此処から見て時計を見る人はありませんけどね。
 三十分せねば済まんと言った様な、重荷になる事はないだろうかと。昨日若先生が申しとりましたが、そうなあそうと言うてその、なら十五分もう、私はそれを感じない事はない。今日は頂いている生粋の所だけを五分か十分か、一口お話しさせて頂いて止めようかと思うけども。お話しを段々段々頂いておるうちに、私が頂いた所だけでは解からんけれども、段々段々頂いておる内に、先生が仰せられ様としている事が解かると言うふうに、外の方は言っておりました。
 だからやはり三十分間させて頂いたが良いと云う事になった。今日もも三十分経ちましたがです、実にそれは素晴らしい御理解だけれども、仲々日常生活の上に当てはめて持って行こうと云う事はは非常に難しいと。だからそれは実際に持って来うとしないから難しいのであって、ぎこちないのであって。例えばなら、今日なら今日の御理解を本気で生活の中に移さして貰うて行くとです。
 成程わが身は神徳の中に生かされておるという体験が生まれて来る。その楽しみとか喜びと云う物がまた格別なんだ。だから私はあの難しい事じゃない、それを行じようとしないから難しいんだと。昨日は神愛会で御座いました。午前中に出来なかったから午後さして頂いた末永先生も来ておられましたので、一緒に入ってもらって色々話を聞いて貰ったのですけど。どうも親先生の話は一段高い次元にあるからとこう言うんです。
 そげなふうに言うたらですね、親先生の言わっしゃる通りにはいかんと云う事になる訳です。そう言わずに、それは次元が高いか低いか知らんけど、やはり出来んながらにも、それに取り組まして頂く所にです、成程親先生の言われるのは此処だろうかとの体験が生まれて来るのだから、それをやはり身に付けて行かにゃいかん。身に付いてしまう所に、楽しい事になって来るのではないかと言うふうに思いますですね。
   どうぞ。